アバターでの会話が日常になったら? 『人形メディア学』から考える、仮想空間コミュニケーションの未来

コロナ禍以降、私たちの暮らしではオンラインで仕事や通学をするスタイルが急速に広がり、仮想空間でのアバターを介したコミュニケーションにも大きな注目が集まるようになった。

特に若年層の間では「どうぶつの森」や「フォートナイト」といったゲーム世界で、自分の身なりをカスタマイズして友人と交流するといったことが当たり前となってきている。Facebookも2021年に社名を「Meta(メタ)」に変更し、メタバース(仮想空間)を今後の主要な事業領域とすることを宣言。Microsoftも2022年内に「Teams」に仮想空間で会議できる機能を追加する予定を発表するなど、ビジネス領域でもアバター化する機会は増えていきそうだ。

Horizon Workroomsの会議の様子

▲Meta(元Facebook)が公開したバーチャル会議ツール「Horizon Workrooms」の会議の様子(ノオト撮影)

一方で、アバターを使うことに抵抗感を覚えたり、現実の姿以上のメリットを感じられないという声を耳にすることもある。今後、アバターを使ったコミュニケーションはどのように発展していくのだろうか?

自分の肉体から解放され、別のからだに置き換えることで得られる恩恵と弊害にはどのようなものがあるか。そしてそれを、古くから人類は「人形」を通して受けてきたのではないか。

クマのぬいぐるみ

ふなっしー、初音ミク、リカちゃん人形、映画『トイ・ストーリー』、NHK番組『ねほりんぱほりん』、ピノキオ……身近な題材から「人形」と「人間」の間に起きた現象を考察する「人形メディア学」という人気講義がある。担当講師の菊地浩平先生に、アバターの影響力について、古今東西の人形に関わる事例をもとに語っていただいた。

菊地 浩平先生(人形文化研究者)プロフィール

1983年生まれ。白百合女子大学専任講師、早稲田大学等で非常勤講師。『トイ・ストーリー』や『ねほりんぱほりん』、リカちゃん人形、ふなっしーやガチャピンなど身近な題材を切り口に、「人形」と人間との関係性を読み解いていく「人形メディア学」講義を担当。早稲田大の学生アンケートで人文科学系学部の2年連続「面白い」1位を取るなど、人気講義として注目を集める。著書に『人形メディア学講義』(河出書房新社)。

菊地浩平先生

聞き手:ゆりいか(編集/ライター)

1989年生まれ。福岡県出身。株式会社Mogura運営のバーチャルエンタメメディア「MoguLive」副編集長。VRやAR、VTuberをテーマとした記事を日々作成中。

ライターゆりいか
菊地先生とゆりいか_オンライン取材

▲この日はZoomを使ったオンライン取材。ライターのゆりいか(筆者)はせっかくなので、いつもVTuber(バーチャルユーチューバー)を取材するとき利用するアバターの姿(右)で参加した

「アバター」は人形なのか

―まず、菊地先生の「人形メディア学」についてご紹介いただけますか?

菊地先生:人形メディア学は、人形を通じて我々の社会とか文化とか、あるいは我々人間そのものを考えるというのが1番の大枠です。人形はもちろん人間の手によって作られたものなので、その作られたものを通じて人間について考えてみましょうというのが、根本のコンセプトです。

私自身がすごく人形LOVEな人間だと思われがちなのですが、別にそういうわけではありません(笑)。人形をたくさん自宅にコレクションしているわけではありませんし、研究室にある人形も学生が持ってきたものがちょっと並べてある程度です。

菊地浩平先生

▲菊地浩平先生

「人形について何か研究する」ときに、そのデザインの美しさだったり、細工の見事さに焦点を当てる方法もあるかもしれませんが、私の場合は「製作者がその人形を通じて、何を表現しようとしているのか」、または「受け手がその人形から何を受け取っているのか」にフォーカスしています。つまり、人形を媒体(メディア)として捉えているわけです。社会や文化の中に生まれた人形を観察して、その向こう側に何があるのかを考えています。

―人形の作り手側が、どんな目的や狙いで人形を作っているのか。その人形を見た人が何を受け取ったのか。そういったことを研究するということですね。

菊地先生:人形作家が実際にどう考えていたかも大事ですが、作家の全然思いもしない方向に人形作品が解釈されたりも全然あります。だから作り手のメッセージだけでなく、そこから予想外な広がり方についても取り上げています。

―例えば、人形作家さんが非常に怒りを込めてつくった人形が、周りからはキュートな存在として受け止められてしまうということもあるわけですね。。

菊地先生:逆に、かわいいものを作ろうとしたら、それが何か悪いものに思われることもありますね。それはそれで私の研究に繋がります。こういった研究アプローチに対して「人形に対しての愛が無い」と怒る人もいるかもしれませんが(笑)。

―人形といってもフィギュアやぬいぐるみ、着ぐるみなどさまざまなものがありますが、菊地先生が扱っている「人形」はどこまでを含めるのでしょうか?

菊地先生:基本的には人形と捉えられるものなら「なんでも」です。私はもともと人形劇の研究者で、舞台の人形劇やテレビの人形劇をテーマに論文を書いてきました。ただ大学で授業をする際に、「人形劇の話だけでやるのは結構大変だな」と思い、リカちゃん人形や着ぐるみなど、自分の思いつくような範囲の人形を取り上げました。

菊池先生の講義

▲講義で、生徒たちの人形を集めたときの様子

そうすると学生側からも「アバターも人形ですか?」「Twitterアイコンも含まれますか?」といった話が出てきまして。以前、学生のひとりから「オシャレ魔女♥ラブandベリー」について聞かれたことがありました。2000年代初頭にゲームセンターに置かれていたゲーム機で、カードを購入することでゲーム内のキャラクターを着せ替えできるというものなんですけど。それで「どうですか?」って聞かれて、「どうですかと言われてもな」と思ってしまって(笑)。

ただ、たしかに現実の人形のような着せ替えができるわけだし、現実側か画面の向こう側かの違いくらいしか無いのなら人形として捉えても良いかもと思ったわけです。そのようにして、人形の定義がどんどん広がっていくということが授業で起きていきました。だから、私の中には明確な人形の定義というのはあまり無くて、言われるがままに「それも人形かもな」と思いながら研究していますね。

―新しい表現が生まれるたびに人形の範囲も広がっていくわけですね。

菊地先生:今日のテーマの「アバター」もそのひとつだと思います。最近ではVTuberが話題にのぼることが多いですが、最初はやはり学生から「VTuberも人形ですよね」と聞かれて、「(全く知らないものが出てきて)困ったぞ……」となりました(笑)。それで学生に勧められるがまま「バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさん」のような有名なVTuberを視聴してみたところ、めちゃくちゃ面白くて、「確かに人形として見なせるかもしれない」となったんですよね。

着ぐるみとアバターに共通する「透け感」

―ご指摘のとおり、昨今はVTuberをはじめとして、ネット上でアバターを使用するといったケースが徐々に増え続けている印象です。菊地先生からは、そういった現象をどのように捉えていますか?

菊地先生:話に出たように着ぐるみも私の研究の射程に入っていて、基本的にはこの着ぐるみについての考え方が使えるかなと思っています。特に着ぐるみを論じるとき、「透け感」というキーワードをよく使うのですが、それで説明できるかなと。

よく女性ファッション誌とかで使われる用語なのですが、私が着ぐるみに関して言う「透け感」は、その中にいる人が直接は見えないけど透けて見えることの意味で使っています。

着ぐるみを見るとき、このキャラクターかわいいなとか、かっこいいなとか思う一方で、「今日暑いのに頑張ってるな」ってつい思うじゃないですか。中の人が見えるわけではないですが、キャラクターの向こう側にいる誰かの姿をつい想像して透かし見てしまう。ゴジラにしろふなっしーにしろ、着ぐるみの魅力の何割かはこの「透け感」にあるのではないか、と私は考えています。

▲菊地先生がゆるキャラのふなっしーと行った公開講義「人形メディア学特別講義ふな菊祭」。菊地先生は著書でも、ふなっしーとガチャピン、ミッキーマウスの透け感の違いについて解説している。

この「透け感」は、例えば俳優さんが演技をしているときにも感じられます。例えば、小栗旬や大泉洋が何かの役を演じていたとしても、彼らのどこかに「小栗旬らしい」「大泉洋っぽさ」を見つけてしまう。役柄の向こう側に俳優の生身の身体を透かして楽しむということを私たちは普段からやっていて、それは矛盾していない。

―「着ぐるみ」と「中の人」のそれぞれを同時に楽しむ状態ができるってことですね。

菊地先生:ちょうど今、Zoomの通話画面にゆりいかさんのアバターが映されていますが、これを見ながら「画面の向こう側の人はきっと今少し傾いてるんだな」とか「首をかしげてるな」とかそういうことを考えながら私はお話をしています。だから、アバターにも着ぐるみのような「透け感」があるわけで、(アバターは)とても人形的なものだと思っています。

菊池先生とライターゆりいか

―人形には「人形そのものに人格を与えて可愛がる」ものと「自らが人形の中に入って、そのキャラクターとして振る舞う」というふたつの方法があると思いますが、菊地先生のなかではそれらの違いをどのように考えていますか?

菊地先生:演劇で言えば、人形を観客の立場で見るか、演者の立場で見るかの違いかもしれません。私の出発点が人形劇なので、人と人形との距離感をはかるときに、どこか舞台芸術的なものを念頭に置いて見ているところがあります。アバターを操作するときも同様ですね。

そういえばブルース・ウィリス主演の「サロゲート」という映画があるのですが、そのなかで面白い表現がありました。人類が遠隔操作ロボットを使役する未来を描いたSFで、主人公のブルース・ウィリスも自分そっくりのロボットを利用するんです。

ところが、一点だけ違うところがあって、使役するロボットの髪の毛がフサフサなんです。これって作中では明言されていませんが、主人公が自分の髪を気にしているとも読み取れるようになっています。

▲映画「サロゲート」トレーラー映像

そこまで極端でなくても、着ぐるみやアバターには、その人の「自分をどのような存在として見せたいのか」、「自分をどう認識しているか」という心持ちが透けてしまうと思います。今、ゆりいかさんが使用されている獣耳のアバターにも、何かしらの意図が込められていませんか?

―私のこのアバターは、ネット上で読書会を主催していた頃に参加者の方からいただいたアイコンが元になっているんです。周りからもこの姿で認知される機会が多かったので、オンラインで知り合った方との交流は現実よりもこちらの方がしっくり来る気がしています。

菊地先生:「自分=アバター」という感覚なわけですね。私の場合は、そういった自分の内面の部分がアバターから透けてみえてしまうことに照れてしまうんですが(笑)。

アバターが我々の関係性のなかに入ってくるときに、生身の肉体とどう区別するか、そもそも区別できないのかを考えてみることは必要かなと思っています。

人形から見る、アバターコミュニケーションのメリット

―アバターを介したコミュニケーションを取ることのメリットとはどのようなものでしょうか?

菊地先生:そのアバターを使っている人の、現実では見えてこなかった情報が出てくることはあるので、コミュニケーションにおいて「その人のことを知る」意味ではメリットといえますね。また「周囲が言いにくいことを言う」という役割を担わせやすいのもメリットと言えるかもしれません。

例えば、世界の人形劇のなかには、政治批判的なメッセージをそのキャラクターに言わせる、というような作品が山ほどあります。つまり、「人間が言うとダメだが、人形ならOK」という風潮があって。みんな、人形を操っている人間が言っているってことは分かっているのに、「人形のセリフに怒るのは野暮」という感覚があったのかもしれません。

日本では戦時中となると政治批判的な人形劇も罰せられたのですが、逆に平時は取り締まられなかったようです。それも先ほどの「透け感」が関わってきてますね。

NHK「ねほりんぱほりん」

▲山里亮太さんとYOUさんがモグラの人形にふんしながら、ディープな裏話をゲストから聞き出すNHK番組「ねほりんぱほりん」。ゲストもブタの人形となっており、過激なエピソードをマイルドに伝えながら、視聴者やMCが必要以上にブタに寄り添わなくてもいい、絶妙な距離が保たれている(画像はNHK「ねほりんぱほりん」公式サイトより)

それからVTuberが活躍しはじめた時期に私が期待していたのは、現実から一線を画したバーチャルの世界で、「中の人」というのをひとまず横に置いて、双方が一定のリテラシーのもとで交流できるようになることでした。

しかし、現状ではまだまだ「中の人を知りたい」という欲望が湧いて、スキャンダラスなトラブルを誘発させている傾向にあり、もったいなさを感じています。今後はもっと、「アバターでしか言えないこと」を共有できる空間が生まれて楽しいことができると良いですね。「透け感」の「透け」が強すぎるというか、現実に足を引っ張られているところが残念です。

―VTuberの場合、多くの視聴者は現実側にいるので、アバター側と生身の人側でのバランスが不釣り合いなのかもしれませんね。全員がアバターの空間に参加することが前提となれば、またコミュニケーションのあり方も変わってくると思います。

菊地先生:着ぐるみの場合、無理やり脱がそうとするのはちょっとルールが違うでしょという意識があるはずです。中身を知りたがる人を相手にし続けると心が折れてしまうことになりそうなので、何かしらのルールづくりは必要になってくるでしょうね。

―また、アバターを利用することのメリットのひとつとして「自分の好きな姿になれる」というのも大きなポイントに思います。先日、入場者全員が猫の姿になれる「ネコデース」というメタバースサービスが発表され話題になりました。

ネコデース

▲猫のメタバース「ネコデース」(画像は公式リリースより)

ーこの空間ではみんな人語を話せず、ニャーといった鳴き声やジャンプ、散歩しかできないのですが、SNSでは「猫になりたい夢が叶う」「人間以外のものになりたかった」といった声があがっていました。

菊地先生:おもしろいですね(笑)。たしかに「人間以外のものになれる」という可能性がポンと登場すると、元からなりたがっていたかはともかく「自分もなってみたいかも」と思う人はいそうですよね。

現実ではハードルの高いことがゲームやアプリで実現できるようになると、本来自分の知るはずのなかった自分自身を知ることができるかもしれません。アバターでも自分が人間以外になったときに「これはこれでいいかも」や「思ったほどじゃないな」など、いろんな可能性を実験的に試せると言うのはメリットと言えそうです。

ただ、もちろん「(自分の欲望に)気づきたくなかった……」という人もいるとは思います。例えば凶暴な見た目になることで、自分の暴力性が現れるようになってしまったとか。

ー人形で遊んでいるときに、自分の知らない一面に気づいてしまうといったケースはあるのでしょうか?

菊地先生:あると思います。以前、リカちゃん人形を自由にオーダーメイドできる体験をしたのですが、何気なくやっていくうちに、赤いフリフリのドレスを着たリカちゃんができてしまったんですね。

菊地先生:私はそんなコーディネートの女性が好きなはずがないのに、結果的に完成したものを見て「あれ?」と違和感を覚えたんですね。「自分は自然とこういう組み合わせを選んでしまうような人間だったんだ」っていう気づきを得たというか、なんとも照れくさい感じですが(笑)。

なので、アバターを利用して一度現実とは違う存在を体験すると、自分の生き方や行動がちょっと変化することはありえます。ゆくゆくは自分の未来の可能性を広げる意味でもアバターのコミュニケーションって面白いのかなって思っています。

アバターの発言が“なめられる”現状は変わるのか?

ー先ほど、アバター活用のメリットのひとつに「周囲が言いにくいことを言う」という話がありました。もし仮に企業などがアバターを利用しはじめたときに、現実の立場や職種の縛り無く、フラットに話ができるといった効果が見込めるように思えたのですが、いかがでしょうか?

菊地先生:人形に即して言えば、劇中の人形の発する言葉というのは「なめられる」。つまり「取るに足らないもの」と思われているんです。観客側はどこかで、人形の発言に自由さを感じていながらも、メインストリームに大きな影響を与えるような力はないと感じているのではないかと思います。

例えば、オンライン会議で、他の参加者が顔出ししているときアバター1人だけで参加すると「この人何なんだ」という空気は生まれるだろうなと思います。未だにそういった風潮は根強くあると思います。

アバターと実写が混在した会議

▲アバターと実写が混在した会議も可能だが、発言力がフラットになるまでには時間がかかる……?(画像はYouTube「Horizon Workrooms」公式トレーラー動画より)

―人形の発言は、外様だから許されている面があると。

菊地先生:そうですね。ひとつ例を出すと、チェコという国では人形劇が盛んなのですが、ナチスドイツが進行してさまざまな文化に制限がかかった際にも、人形劇はその対象にならなかったんですね。それは国側が「人形劇にはそれだけの政治的な影響力はないだろう」と判断したからだと推測できます。世界を変えたりはしないからこそ黙認されるという。

もし、スマホが世界全体に急速に普及したように、今後アバターの活用が当たり前となり、バーチャル世界へ出かける際の必須要素となるときが来れば、アバターの姿での発言力というのも変わってくると思います。

ー現在注目されているメタバース関連サービスが普及していくことで、アバターに関する価値観も揺らぐわけですね。

菊地先生:現在は、メタバース側でどういう価値観の社会を作っていくべきかを議論するのが重要な気がします。結局「仮想空間では現実の外見から解き放たれる」といった新しい可能性を用意したとしても、「アバターよりも現実の姿の方が発言が重い」といった現実側の価値基準に引き戻されてしまうようでは意味がない。

何なら現実のルッキズム的な価値観が凝縮されて、よりアバターの見た目が画一的なものになる可能性もあります。そうなれば、「人間のかたちにこだわらなくてもいい」といった価値観に変化していくことだってあってもいい。そういった旧来の固定観念から抜け出す議論が進めば、現実の側の価値観も大きく変わっていくかもしれません。

▲エイリアン、犬、ネコ耳少女の姿で、晴れた清流の中で会議したっていい?(画像はソーシャルVRアプリ「VRChat」のスクリーンショット。ノオト撮影)

ー菊地先生が将来アバターが普及した未来で期待していることはありますか?

菊地先生:個人的には「自分がアバターを操作するもの」という価値観も取り払われて、アバターはアバターで好きな人生を送って欲しいですね(笑)。メタバースで好き勝手に生活してもらって、時々その様子をチェックする感じで。

そうすれば、現実の私が選ばなかった別の人生の可能性というのを、アバターが見せてくれるようになるのかなと思います。それに影響されてわたしの人生も変わっていくかもしれないですし。

私が最初に研究していた人形劇って、18世紀イギリスの等身大の木製人形を使ったもので、糸で操る人形使いがうまく操作できないというコメディ的な作品なんですよ。人間が人形のことを完璧に掌握できるという価値観をくつがえしてくれる面白さがあって、アバターにもそういった要素があっても良いのかなと思います。

ー高度なAIが発達した先に実現できそうなイメージがありますね。

菊地先生:そうなればアバターの人権というか、元は自分から生まれたものかもしれないけれど、そのキャラクターの人格を認めて尊重するべきという価値観も今後登場してくるでしょうね。

ー大変興味深いお話を、ありがとうございました。

アバターと人形イラスト

取材・文:ゆりいか アイキャッチ・イラスト:カヤヒロヤ 編集:黒木貴啓/ノオト、本田・木崎/なるモ編集部

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